李氏朝鮮では前年に世宗が即位していたが
李氏朝鮮では前年に世宗が即位していたが、実権は太宗が握っており、太宗は倭寇撃退を名目にした対馬遠征を決め、永楽17年(西暦1419年)6月、李従茂率いる227隻、17、285名の軍勢を対馬に侵攻させた。
この時期は対馬の有力者が明などに渡航し不在であることを知り、また同時に朝鮮国内の在留商人らを一斉に抑留するなど、防備の弱体に乗じ一般民衆を標的にした周到な計画であったことが知られる。
また、太宗は号令の中で「古書によれば対馬は慶尚道に隷属する」と根拠に欠ける主張を掲げた。
6月17日に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、6月19日に再出航している。朝鮮軍は6月20日昼頃に対馬の尾崎浦(朝鮮王朝実録には豆知浦とある)附近へ上陸。一帯の一般船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の島民を殺害したとされる。
しかし6月26日頃には、仁位郡(実録では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受け、李従茂の軍は尾崎浦まで退却、戦局は膠着状態に陥った。
この時期は対馬の有力者が明などに渡航し不在であることを知り、また同時に朝鮮国内の在留商人らを一斉に抑留するなど、防備の弱体に乗じ一般民衆を標的にした周到な計画であったことが知られる。
また、太宗は号令の中で「古書によれば対馬は慶尚道に隷属する」と根拠に欠ける主張を掲げた。
6月17日に巨済島を出航したが逆風ですぐに引き返し、6月19日に再出航している。朝鮮軍は6月20日昼頃に対馬の尾崎浦(朝鮮王朝実録には豆知浦とある)附近へ上陸。一帯の一般船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、また104(実録には首級114)の島民を殺害したとされる。
しかし6月26日頃には、仁位郡(実録では尼老郡)で対馬側の伏兵に遭い多大な損害を受け、李従茂の軍は尾崎浦まで退却、戦局は膠着状態に陥った。
update:2009年09月14日
